鳳凰院平平堂

嘘ではないが真実でもない

大衆

先週の話。バイト後、ドトールに入店した。30分経過。隣の爺さんはただ前を見つめて微動だにせず、足を組んで座っている。傍から見る限り、特に何もしていない。テーブル上のコーヒーはまだ残っているが、それ以上はもう手をつける気配もない。僕が入店したときからずっとそのままじっとしている。
 
高校生のときに読んだ、元プロレスラーの天龍源一郎へのインタビュー記事を思い出した。引退後は特に何もしていないという話だ。彼は特に趣味もなく、一日中家で何もせず過ごしている。でもそれでいい。自分は誇れる試合をしてきたから。引退時に「腹いっぱいのプロレス人生でした」と語ったその言葉に嘘はない。だから今は時間に追われず何もしないことが幸せ。そういう内容だった。プロレスは見たことすらないが、あれは最も感銘を受けたインタビュー記事のひとつだ。隣にいる爺さんは元プロレスラーではなさそうだ。だとしたらあまりに細すぎる。でもきっと彼も天龍源一郎と同じくらい「現役時代」に誇れる「試合」をしてきたのだろう。だって流石に時間の流れが違い過ぎるじゃん。そう思わせる佇まいだった。一方、僕はそのときインタビュー原稿の構成に取り組んでいた。それは想像よりもはるかに時間のかかる作業で、すでに自分で設定していた目標の締切は大幅に超過していた。別に焦ることでもないのだが、遅々として進まない作業に若干苛立っていた。
 
爺さんが立ち上がった。カップの置かれたプレートを返却口に持って行くことはなく、そのまま、ゆっくりと、退店していった。視界の前方にいたのは高校生らしき男子で、ずっと頬杖をつきながら勉強している。彼も隣にいた爺さんと同じく、僕が来る前からずっと座っている。受験生だろうか。センター試験(今は共通テストというらしい)まで、あと1ヶ月を切っている。この時間までドトールにいるくらいだから、やはり切羽詰まっているのだろう。おそらくテーブルの上のコーヒーは空っぽで、カップの底が乾ききってかぴかぴになっているはずだ。
 
 時計は午後9時。原稿は大して進むこともなく閉店時間になった。先程の高校生に続いてプレートを返却口に持っていく。戻す前にコーヒーを飲み干した。飲み残したままテーブルに置いていくほどの域に、僕はまだ達していない。
 
帰りの電車ではスマホで原稿を書いた。なぜかPCよりもこっちの方が筆の進みが速い。その日はそういう日だった。最寄りの二駅前で僕は手を止めた。人生の段階についての考えが頭を支配し始めたからだ。前日の夜、祖母が亡くなったという連絡が父からあった。その祖父はちょうど一か月前に亡くなっている。もう片方の祖母が亡くなったのも今年の出来事である(その祖父は僕が産まれて間もなく亡くなった)。どの祖父母にも一度しか会ったことがないし、そもそも父とも年に一度会うかどうかで、一緒に暮らしたこともない。それゆえか、そこまで強い感傷は受けなかったのが正直なところだった。それでも少し身体が重くなった。なんだか押し出されたような気もした。人生の段階がひとつ進んだような感覚である。
 
どうしたって老いた順にいなくなっていく。もちろんそうならない場合もあるが、多くはそうなっていくし、できればそうあるべきである。僕は二つ上の世代の血縁者を失ったが、両親は生きている。だからこれは起きたことは起こるべくして起きたことだし、言葉が適切か分からないが、順当なことだといえよう。
 
最寄りの一駅前、いずれ訪れるはずの自分の親がいなくなる日のことを考えた。今、彼らが経験している喪失感を、どのようなかたちであれきっと自分も味わうのだ。もっと言えば、僕はそれを味わうべきなのだ。僕は長男だから、きょうだいを失うことは、“順当”にいけばないはずである。だから妹や弟に比べれば楽な方なのかもしれない。
 
最寄り駅に着いた。ついに原稿は書き上がらなかった。
 
今日はクリスマスで、明日は葬式だ。久しぶりに会う父と、一体どんな言葉を交わすことになるのだろう。
 
レンタルした喪服のサイズ感を確かめる。黒いネクタイを締めるのは初めてで、少し違和感がある。若干窮屈だが、見た目に問題はなさそうだ。鏡を見る。口元が少し父に似ているような気がした。
 
2022.12.25
 
inspired by……