鳳凰院平平堂

嘘ではないが真実でもない

20わからない24

2024年9月29日のポレポレ東中野にて、『あみこ』(2017)を観た。監督の山中瑶子さんによる舞台挨拶が上映後に行われるのもあって、会場は満席だった。山中さんは今年『ナミビアの砂漠』という素晴らしい作品を世に放った気鋭の映画監督だ。

 

 

『あみこ』も『ナミビアの砂漠』も、主人公はとにかく「わからない」というわだかまりを抱えながら全身で生きている人物に思えた。自分はいったいどんな人間なのか、身の回りの人が何を考えて自分と接しているのか、どうして世界はこうなっているのか。「わからない」という状態は人間にとって最もストレスフルなものだ。だからいろんなことをわかりたい。自分という輪郭が、世界とどんな距離感で形作られているのかを把握したい。だから生きている。

 

山中さんの映画は初監督作品と最新作しか観たことがないけど、この2作は「わかりたい」という衝動にたいして極端に素直に生きる主人公という点が共通していると思った。10代のあみこはだいぶイタかったし、20代のカナの言動はところどころ僕の理解を超えていたけど、その輝きがすごく羨ましいとも思った。

 

舞台挨拶の質問コーナーで、僕は山中さんに質問をすることができた。

 

「今“わかりたいこと”って何がありますか?」

 

山中さんは少し考えて、「両親のこと」と答えてくれた。

 

もう少し詳細に話してくれていたと思うのだが、(家に帰ったら発熱していたこともあり頭がぼーっとしていて)メモをしていなかったので、やや古いが『あみこ』での山中さんへのインタビューを引こうと思う。

 

母親みたいな人には絶対になりたくないと思っていたんですけど、やっぱり似てくるというか。わたしも大人になってきて、母親の行動原理がわかるようになってきました。(中略)だから、(母の出身国である)中国に行ってからは母親のことを好きになってきましたし、面白いし理解したいと思う。

エクリヲ編集部(2018),カッコ内は筆者加筆

 

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今年僕が最も「わかりたい」と思ったのは自分のことだった。それはまだ見ぬ「自分らしさ」を求める旅としての「自分探し」的なものではなく、より具体的に自分のことについて、自分の行動原理について「わかりたい」というものだった。

 

それは簡単に「自己理解」と言い換えてもいいかもしれない。ただしあくまでも自分の外側ではなく自分の内面だったり実際の行動だったり、具体的な材料から考えるのが重要。

 

それを最初に意識したのは就活だったと思う。幸いにも僕は就活で何か深く思い悩むことはなかったが、最終的に入社を決めた会社の面接では自分の将来を具体的に描くことを求められた。

 

 

ずっとぼんやりとした理想像のようなものはあるが、ここまで具体的かつ説得力を持って自分のことを考えるよう要求されたのは初めてだった。大学院だって就活がしたくないから進学したようなものだ。

 

でも、何事も(まさにこの文章やポッドキャスト収録がそうであるように)実際に手を動かしていると新しい考えや展開が浮かんでくるものだ。僕は就活を進めていくうちに、いま取り組んでいる音楽業界でのライター活動で得た知見と、不動産・建築設計の分野でこれから積むことになる実務経験のどちらも活かせるような事業を始めてみたいと思うようになった。その準備には15年くらいかかるんじゃないかなとも思っている。先は全く分からないけど、柔軟に楽しくやっていきたいと思う。

 

自己理解という点では、人間関係でも色々なことがあった。この種のプライヴェートなことをうかつに書くとあらぬ方向で誰かを傷つけることになりうるし、実際そう気を付けていても心底嫌な目に遭うことがあったので、不特定多数の目に触れる場所には書かないと誓っている。だから直接的には何も記さないが、ひとつわかったのは、誰かを傷つける行動の原因は自己理解と自己開示が足りていないこと、つまるところコミュニケーションの問題であるということだった。

 

なんとも抽象的なまとめ方になってしまったので、もう少し具体的に書いておこうと思う。僕はずっと「自分のことを愛せない人は他人のことも愛せない」というテーゼの意味が全くわからなかったし、そんな乱暴でひどい話ある?とさえ思っていた。「自分を愛する」の意味もわかるようでわからないし、自己愛の欠如が他者への愛を否定するというのは、自己愛を持つことのできない人にとっては理不尽なことのようにも思えた。

 

でも、冒頭の「わかりたい」という心の動きについて考え直してみると、それは部分的には愛と言い換えられると思う。愛のほうがより広範で複雑な動きだけど、愛には「わかりたい」が含まれているはずだし、その逆も成立すると思う。結果として別に何もわからなくてもいいんだけど、わかりたいと願うことは大事だと思う。

 

「愛とは」っぽい話が出てくるとどうしてもナルシスティックな文章になっている気がしてならないのだが、むしろ逆で、自分に自信がないことに気付いてそれを認めるのは大変な作業だった。僕は自己愛を人並みに持っていると思っていたけど、実はそうではなかった。それに気付くことができて感謝もしているし、同時に色々なことを反省した。

 

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2024年のAIの進歩は目覚ましい。特に現在月額3万円のChatGPT o1の性能には驚愕した。先日収録した久世くんゲスト回をAI文字起こししたテキスト(自動なので当然固有名詞などはめちゃくちゃで読めた代物ではない)を、上述したGPT-o1に突っ込んで「東洋経済オンラインのルポ記事風にして」と頼んだら、以下のようなリード文が生成された。

 

「もうあいつ、死んだんじゃないか」――。大学を休学中のクゼさん(仮名・20代前半)は1年半ものあいだ、友人や知人の連絡にいっさい応じなかった。SNS上にも姿を現さず、電話やメールも完全に無視。あまりに長い沈黙に、「本当に生きているのだろうか」と周囲が案じる日々が続いたという。

ライターの藤谷千明さんに頼んでGPT o1で生成してもらいました

 

正直、原稿執筆におけるAIの使用は細かな言葉の言い換えや、よくて論旨の修正くらいにしか使えなかったので、そこまでクリエイティヴな面で役に立つものではなかった。

今回のものも元がポッドキャストというのはあるが、それでも上のリード文が現れたときは、やや芝居がかったクセのある文章とはいえ、さすがに驚いた。この先にはポッドキャストの内容をほぼ正確に反映したルポ記事が生成されているのだが、そちらの内容も見事なもので、これは月3万の価値は十分にあると思った。普段自力で行っている固有名詞のリストアップも、不正確な文字起こしテキストから正確な表記の提案も添えたうえでこなしてくれるのは本当にありがたい。

 

 

これもずっと言われていることではあるが、機械がやっているのは結局のところ演算である。実際にそこに記述されていることを人間のように理解しているわけではない。ただそれっぽく言葉を並べているだけだ。

 

もちろん、その精度があまりにも高過ぎるため、もう完全に見分けがつかなくなるのも時間の問題というか、もうすでにそういう時代になっているとさえ思う。来年にこの文章を読み返したら、遠い時代のことのように感じるのだろうか。

 

ただ、機械が「わかりたい」という心の動きを得ることはない。それを再現できるようになったとしても、それは結局演算の集積でしかない。「わかりたい」と願えるのは人間だけだ。だから僕は「わかりたい」をずっと大事にしていたいと思う。

 

***

 

ところで、山中さんが「わかりたいこと」として挙げてくれた「両親のこと」というのは、多くの人が何らかのかたちで共感することだとは思うけど、僕も共感するものがある。

 

最近は親の将来も考えることがある。もう少し一緒にいる時間を大切にした方がいいんだろうか、と長男らしい(?)ことを考えたりもする。まだ四半世紀しか生きてないけど、もう四半世紀も生きてきたわけだ。あと数ヶ月で大学院を卒業するが、よくここまで女手一つでモラトリアムを引き延ばさせてくれたものだ。休学も挟むと7年も大学にいたことになるし、妹にはとっくに先を越され、4個下の弟と同じ年に社会人デビューである。そういえば今年は弟とも長年の問題をある程度解消することができたな。その話もいいけど、もうあと5分で2025年だ。

 

明日は母親と初詣に行ってくる。もう何年も初詣なんて行ってないし、正直めんどうだなとしか思わないのだが、「じゃがバターを食べよう」と言われたこともあり、上に書いたような思いもあり、きょうだいは友達と遊びに行くようだし、僕は長男なので、明日は行ってみようと思うのだ。